2012年6月27日水曜日

知識は武器



今日は長崎大学大学院 医歯薬学総合研究所 教授
医師 高村 昇先生

と 福島県立医科大学 医学部 放射線健康管理学講座助手
医師 宮崎 真先生

お二方が 川内村に講演に来てくれました

テーマは『食事からの内部被ばくへの影響について』

『ホールディカウンターとは』でした

最近思う
福島大学の研究者や 名の知れた医学者や 支援活動をしてる団体の方にお会いさせてもらって話を聞くと
放射能に対して専門的に知っている人達ほど福島に対して希望を持っている
可能性を信じてるということ
そういった人達の話や生活を聞くと不安だった部分も 安心へと変わる
私達も 希望を持てる 可能性を信じれる

ここで 少し 放射線についての知識です

国が安全とした基準というのは

平常時 年間1ミリシーベルトでした 事故発生時は50ミリシーベルト
そして今は年間20ミリシーベルト
そして今後は長期的な目標で年間1ミリシーベルト

この1ミリシーベルトとは 1000マイクロシーベルトです


100ミリシーベルトを超えると人体に影響が出てくるといわれています

だけど 南インドでは 高自然放射線地域があり
年間16ミリシーベルト受けているという
生涯被ばく線量1020ミリシーベルトくらいになるそうですが
放射線による直接的人体被害は証明されていないとのこと

これは チェルノブイリのときにもういえるのですが
事故当時 0歳~10歳の子供達のその後の(25年間)甲状腺ガン発症者は
およそ6000人 そのうち死んでしまった子は28名

これは放射線には様々な種類がありそのうちのひとつ
ヨウ素131という物質が甲状腺にたまりやすい性質があるから

ヨウ素とはもともと自然界にあるものでそういう性質である

しかしヨウ素131の半減期は8日

事故現場で働いていた人達は瞬間に膨大な被爆をしたため亡くなったかたは数十名いた

それ以外はこの25年の調査で直接的人体への影響は2世にもいまだに証明
されていないそう

瞬間に100ミリシーベルト受けるのと 長い時間かけて100ミリシーベルト浴びるのとでは 影響が全然違うんだ

他にもいろんな話を聞けた

最後に質問コーナーがあって 一人のおばあちゃんが
『私は東京に避難していたんだけど その時にいわきナンバーで走っていると
放射能が散らばると嫌がる人がいる
私の体から放射能が出ているからと嫌がられた
そんな事はあるんでしょうか』と

先生は この世界には 放射線がない場所なんてない
自然に放射線が発生しているんだ 

この世界に誰かに影響を与える放射線を出してる人なんて一人もいない
自分がきちんと知識を持って 自身を持って生きてほしい

そういっていた

福島の人が東京のパン屋で働いていた
福島の人が作ったパンなんて食べれないといわれた

婚約をして結婚式まで決まっていたカップルが
福島出身ならこの先生まれてくる子供に影響があるかもしれないと
すべて破談にされた

かなしすぎる かなしすぎる かなしすぎる

色んな情報に翻弄されるけど 出来るだけ正しい知識を持って
自信を持って 堂々と 生きていたい

この身を持って 証明したい そう思う




放射線お知らせロボ



みなさん これ わかります?


村のいたるところに あります

日本中にあります

そう 放射線を図る モニタリングポスト


川内村は 平均0.2~0.3μSV

これは 福島県の中ではかなり低い数値

郡山市や福島市は原発から川内村よりもずっと遠いけど
この数字の2~5倍はある


私の家の中は0.8~1.0μSV
これは 東京とほとんど変わらず(場所によるけど)

自然界で当たり前にある放射線数値


もちろん ホットスポットと呼ばれるところもある

それは世界中どこにでもある

住むところは いっぱいある

住みたいところは そんなにない

いきいきと いきていたい それはどこなんでしょう




除染真っ最中


もう今日で五日目
裏の山の木を切る音で起こされ 一日中鳴り響く機械の音

村中で毎日除染作業が行われている
私の家の裏の山も除染されている

木を切り 土を掘り返し 芝や砂利を入れ替える
いったいどれほどの木があり 土があると思ってるんだろう

終わりはあるのか

行き場を失った除染された木や土が 村のいたるところで
山積みになり みんなにいやな顔されてる

除染で出た産物は 処理の問題で大変だ

受け入れ拒否 九州まで非効率運搬 村での処理場建設計画

すべてがまだ 計画的でも明確的でも効果的でもない

国のえらい人達や専門の人達が日々 
話し合って知恵出し合ってお金出し合ってがんばってくれてるんだろうけど

とどいてないよー 

今でも毎日福島原発所では2000人の人達が必死にはたらいている

誰にだって守りたいものはある

あなたにも わたしにも あのひとにも
それがきっと一人ひとり違うものだから

誰一人として同じものではないから

あなたは わたしは あのひとは

進む道の違いに困惑するの




ただ
感謝しています
毎日 どこかの県から 家族と離れて 除染にきてくれている人達

ありがとうございます

どうか
彼らの 汗や 努力が報われますように


2012年6月6日水曜日

福島初のBBQ!!


私の家の大家さんと隣の鈴木さんご夫婦

母屋の前にはこんな素敵なバーベキュースペースがあるのです

幸せを感じます 全身で

お世話になります 度々に


鮎の塩焼きに乾杯






2012年6月4日月曜日

赤いアロハの粋のいいおじさんと幸せの黄色いおしぼり


私が東京から川内村へ来るとき
MY白馬セダンのレガシーさんにMY木馬ママチャリさんをつもうと
一人で格闘 必死こいてもがいていました

なかなか乗らへん 全然乗らへん 多分 こいつ 乗るきないと思う

ああ 心が おれる 汗が たれる

その時 そんな私の元へ 一人の王子。。。。いや違う

真っ赤なアロハを着た これまた粋のいい 油ののったおじさんが
手をさしのべてくれました

その後 二人で格闘 必死こいてもがいた

入った

あかん 運転できひん 

その後 二人で格闘 必死こいてもがいた

出た

おじさんがトランクにいれてくれた

そしてパチンコ帰りのおじさんがパチンコでもらった黄色いおしぼりを
半分はみ出た自転車の前カゴに結んでくれたんだ
(法律的にははみ出た部分には赤い布をつけなきゃいけないらしい)

私を最後に見送ってくれたのは
赤いアロハを着た粋のいいおじさんでした

からの~

みなさん 私 仕事が決まりました

こっちへきて いろんな思いがあり 花屋の仕事は一旦諦めました

川内村で 川内村の人達と 川内村の役に立てるような仕事を探していました

はい 決まりました

川内村役場 臨時職員 として 全力でがんばります

私の目標を思えば めっちゃ力になる勤務先だとおもいます

とにかく どんな仕事も 全力前進やねん

早速エクセル本買ってパソコンと格闘中(笑)

ありがとう


ハイセンスなお部屋です

伝わる人には伝わる(笑)探してみてください

心からありがとう

さみしくないねん いつもこれ見てるから 笑けてくるねん

ほんまにありがとう

 

2012年6月3日日曜日

実証田その② ハイテクロボット


私が想像していた田植えって長靴にほっかむりに麦わら帽子
ひとつひとつ手で一列一列地道に植えていくものだとばかり思っていました
それはもう何十年前の話(無知ですいません)

今はこんな素敵なスカイブルーのロボット300マンエン君が
人々が腰をやられてしまわないように
変わりにとんでもないハイスピードで植えてくれるのです


あっちゅーまっ  でした

川内村では一番の最先端の大手農業家だそう

少しお話も伺いました

不安と苦悩の声
果たして放射線は検出されるのか
膨大な山まで除染は出来ない 水は山から流れてくる
今年でなくても じゃあ来年は 再来年は

NDだったお米が出来たとしても
果たして誰が買ってくれるだろうか

いったいいつまでこの不安と戦わなくてはいけないのだ

やるせない思いが
農家さん達の目を曇らせている 心を蝕んでいる

けれど

ひとすじの希望はここにちゃんとある
農家さん達の心にちゃんとある

どうかその光がサンサンと降りそそぎますように

私はまだ食べたことないけど
川内村のお米は 水に本当に恵まれていて
寒暖の差もしっかりあり
とてもおいしいお米が出来るそうです

今まではお客さんに一度送ると必ずリピートされていたそう

またリピートしてくれる日がくるといいな くるとはず  うん

実証田その①


この田んぼは秋元美誉さん夫婦が任されてる田んぼで
天山文庫という詩人草野心平先生の蔵書がある文庫施設です
↓詳しくは。。


そのすぐ前の田んぼです


私は残念ながら参加できなかったのですが(めっちゃ残念~)
東京から30人ほどボランティアの方がやってきて
一緒にひとつひとつ手で植えたそうです

七月の第二日曜日に毎年開催される『天山祭』
そのときにはもっと成長した青々とした田んぼが見れるとおもいます

2012年6月2日土曜日

満月祭!!



むかしむかしバクと呼ばれる地域の山に
二人の原人が住みついた
二人の名前はマサイと奥さんのボケ

その山に勝手に家を建て
勝手に獏原人村と名づけ
仲間と共に裸で生活を始めたとさ


すぐに風邪を引き 原人だってまとうものをきてるじゃないかと
服を着ることは許可した 自分達に

そして満月の日に歌って踊りくるう
そんなハピネスなお祭りを勝手につくったんだそうな

そのお祭りを 満月祭 そうよんだそうな


それから歳月がすぎ 2010年には2000人ものヒッピー達が来る
壮大なお祭りになった
そう
2010年までは。。


2011年
その年のお祭りは予測がつかなかった
果たして人はこの獏原人村にやってくるのだろうか


私はその2011年の満月祭に初めて参加した
福島に来ることすら 東北に来ることすら はじめてだった

私の東京の園芸店で一緒に働いていたぶちこという女性の父が
まさしく原人の仲間の一人だった その縁

100軒ほど出ていたお店が 今年は2軒ほどだと聞いたので
よっしゃ 私 たこ焼き焼く 焼く まわして 焼くで~

結果的には
200人ほどきていたのではなかろうか おそらく
こんなときにきたみんなやから
なんだかめちゃくちゃHOTやった

色んなヒッピーがたこ焼きを買いに来てくれ
たくさんのヒッピーとハグをした

ビールと音と踊り そしてファイヤー そして満月

この世の幸せのすべてがここにあるのではないかと思うほど
本間に楽しい一瞬やった

今年もやります

満月祭2012
八月二日(木曜日)満月の日
から
八月五日(日)まで

びっくりするぐらいの荒険山道を四キロ登るとたどり着きます
(去年は神奈川から3日かけてチャリできた勇敢な少年がいました)

今年もたこ焼き焼きます 去年よりおいしいです




満月祭でお会いしましょう

出会いに出会う


こちらNHKの番組ディレクターの金井さん

川内村へきた翌日
初めのブログに書いた農家さんの家にあいさつに行くと
彼に出会いました

彼は農家としての信念を貫く秋元美誉 ソノ子夫婦に
心底惚れてる男です

去年の秋からずっと秋元さんを取材していて
何度も川内村に足を運び
秋元さんともとても深い信頼を築いていました

そんな彼は
川内村へ引っ越してきたうら若き乙女(批判うけそ~やな笑)に
とても興味津々模様

彼は高校中退後 みんなも聞いたことがあると思います
『ヤンキー母校に帰る』
のモデルになった北星学園余市高等学校へ行き
卒業後大学へ。。。は行かず
いろいろしてから(いろいろやねん)テレビ局の世界へ入り
いろいろしてから(いろいろなんです)
気づけばNHKで働いていました
そして私と出会いました(えらいざっくりな感じですが)

人生観がとても豊かで
今はやりの『聴く力』を彼は持ちあわせている(なんか上からですみません)

私も思わずというか
素直に自然と
ここへきたいきさつや思いを話していました

彼は私に取材を申し込んできた
どのタイミングで使うかわからないけど
いちおう。。。。

私もブログをやったりフェイスブックをやったり(まだやけど)
メディアに出たりすることが
福島の事を風化させない方法のひとつとして
使えるものなら使っていくと決めていたので
快くひきうけました

お蔵入りになるかもしれませんが(笑)

私の活動がみんなの心に響くような時がきたらその時は
髪の毛ぼっさぼさの気の抜いた格好で
登場するかもです (語りはマジです)


彼に戻します
彼は秋元さんの農業への思いと苦悩しながらも誠実に生きる生き方を
心から尊敬し 一時は川内村へ引っ越して
秋元さんの農業手伝う決意までさたそうですが ある人から

きみのやるべき事は伝えることだと 言われ

今 こうして川内村へ通い 
秋元さんの思いや農家の暮らしを日本へ発信している

だからこそなのか
私の思いを真剣に聴いてくれ
その思いが村の中で少し違う形で捉えられてることに
彼は一瞬で感じ 一緒に思いを伝えることを考えてくれた


心強かった

この場を借りて改めてお礼の弁を。。。

ありがとうございました 金井さん
これからも共に川内村を秋元さんを惚れてる者同士よろしくお願いします
また川内村で会いましょう

まだまだこれから

そのあと 双葉郡の農林事務所の方も私に会って話を聞いてくれました
なんでも相談下さいとのこと

出会いは 私を豊かに 強く してくれる

まだまだこれから









家の前の景色   (インターネット開通~!!!)



川内村
福島県双葉郡にある人口3000人の村
原発から20km~25kmの場所にありながら
放射線の被害がここより遠い場所よりもずっと少なく
奇跡の村
そう呼ばれた

東京の練馬から福島県双葉郡川内村まで
高速四時間荒山道一時間

来るのは今日で5回目
片道だけの5回目

私がこれから
心が折れそうになったとき 自分を見失いそうになったとき
川内村へ来た目標を忘れないように
初めてのブログに今の気持ちを書きます

震災後 何か出来ることはないかと思いながらも何も出来ず
テレビの中の世界と私の生きてる世界の違いに
ただ苦しくてただ哀しくてただ祈ることしかできひんかった

一年後の今
私はここにいる

何かのためよりも 誰かのためよりも 多分 自分のために
楽になりたかった 後悔したくなかった 

目標は
川内村のお米を消費してもらえるように
プロジェクトやルーツをつくること

今川内村は田んぼの作付けが禁止されている
去年 禁止されている中
自分の信念を貫き 自分の手で目で確かめるために
一枚だけ田んぼを作った農家さんがいました
結局すべて没収され廃棄させられてしまった

結果はND(不検出)だった

どんなに悔しかっただろう どんなに哀しかっただろう

今年は村が要請した30箇所の農家さんたちに
どこかのおえらい研究者の方々が考案した
放射線を下げる効果のある色々な実証田を作った

結果次第で来年から田んぼの作付けが解禁になる

農家さんたちは染量を測るためだけの廃棄させられるお米を
どんな結果になるかわからない不安と戦いながら
収穫の秋まで育てるのだ

私はそれを一緒に見守ろうと決めた
一年間の川内村や農家さん達の苦悩の日々の中で
誠実に行っている現状と偽りのない結果を

そして私はそれをみんなに発信する

少しでも 風評と呼ばれるようなことでみんなが
福島からはなれていかないように

水や気候に恵まれた自然豊かなこの場所で
まっすぐに生きている人達がここにいて
一生懸命に作っているお米がある
それが国が決めた『安全』と言われる基準をクリアしたならば

その時 もう一度みんなにかんがえてみてほしい


このブログは原発25kmのばしょにある福島県双葉郡川内村より
私が自分の目で見て見た事 経験した事 感じた事を
私なりに日々つづっていこうと思います



私の笑いありビールありやよい(猫)ありの祭ライフと共に。。。